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急性骨髄性白血病 治療日記 -だってたべたいんだもん編ー

悲劇のヒロインをやめてみる

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白血病の治療、5回の抗がん剤治療が終わったのが、2017年の8月末。退院して2年経ちました。完治したと言えるには、5年かかるそうで、ようやく2年。まだまだ3年ある。

退院後、毎月1回、血液検査に行っていましたが、今年に入って主治医DJRに「毎月じゃなくてもいい?6週間ごとは?」と聞いてOKもらい、最近は、2か月に1回くらいに行っている不良です(笑) だって、待ち時間が2-3時間くらいあるんだもん。

そして、8月の検査で、ようやく血球が基準値にはいりました。

  • 白血球 4,000  (基準値3,300〜8,600)
  • 赤血球 419  (基準値386〜492)
  • 血小板 16.7  (基準値15.8〜34.8)

体調もばっちり。

 

白血病の治療が終わった時、私は44歳。主治医DJR曰く、私の再発率は30~40%で、すごく高くもないけど、低くもない微妙な数字。よーし、50歳になるまでのんびり過ごすぞ!と考えていました。仕事もゆるーくやろう。だって、毎月1日、平日に休んで病院にいかないといけないしー、最初の6か月は有給だってないから会社に迷惑かけるしー、もし再発して入院したら会社に迷惑かけるしー、死ぬ前にやりたいこといっぱいあるしー、なんてなんて。

結局、発症から1年半の間、傷病手当をもらいながら治療と療養し、その後(会社が倒産したので)6か月間失業手当をもらいながら仕事を探し、発症して2年後に、めでたく仕事を見つけました。会社の人は、私の病気に理解があり、大変有り難い環境で働いています。

仕事を見つける前は、さぁこれからどうしよう。こんな私を雇ってくれる会社があるだろうか?と不安いっぱいありましたが、今ならわかる。ぜんっぜん大丈夫!! 病気だからって負い目に感じることはぜんぜんありません。病気になったからと言って自分の価値を下げるのはナンセンスです!! 

通院の月1日休んだって他の日に頑張ればいい。体力がなければ、休んでその分お給料が下がったっていいんです。具合が悪くなれば、ちゃんと理由を言ってお休みする。自分のペースで働いて、やることはやる。決して無理はしない。自分のペースをキープ。他人と比べない。大きな病気をしていない人も、具合が悪くなったり風邪をひいて休んでるのをみると、なんや、一緒やん!って思いました。そして、自分が「若くしてがんになった悲劇のヒロイン」やってるから、負い目があるんだと気が付きました。私が休んでも、周りは結構なんとも思っていないんだな、と。

最近は、ほんとうに体調がよく、この前ふと、「私、もう再発はしないわ!」と気が付いてしまいました。もしくは、「再発しても大丈夫やわ!」って思いました。なので、病気のこと再発のことは、どーでもよくなりました(笑) 悲劇のヒロイン、卒業です。

病気にとらわれながら生きていくのも、忘れて生きていくのも、自分の選択しだい。なんでかわからないけど、なんの根拠もないけど、あー私大丈夫やわーの100%安心感につつまれている今日このごろ。

そして、いろいろやりたいことが出てきました。フル回転モードで、やりたいことは全部やりたい。あー、1日36時間とかにならないかな。

2年前の今日

今日は、同じ病室だったMちゃんの命日。

2年前、まだ20代だったMちゃんは、本当に本当にあっという間に

連れ去られてしまった。

 

自分のブログを読み返してみると、あの日、私は一時退院で家にいて、ねこさんが遊びにきてくれてた日だった。

 

よく見ると、ねこさん困った顔してる。 

yoko-yokohama.hatenablog.com

 

Mちゃん、忘れていないよーーー!

私は、元気にしてるよーーー!

 

池江璃花子さん、治療うまくいってるかな。

パジャマ作って、プレゼントしたいな。

 

2年前の今日

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今朝 会社へ向かう途中、2年前の今日、白血病と診断されたことに気がついた。しかし、入院してたことが随分遠い過去のような気がする。

 

退院してからを振り返ると

退院してから4ヶ月くらいは、白血球が2000辺りをうろうろしていて、ほとんど家で過ごした。(白血球の基準値は 3300~9000/mm3) くりくりの髪の毛が生えてきた頃。

その次の4ヶ月は、生えた髪の毛を整えて、外に出るようになった。体調をみながら。 疲れたらお昼寝。どうやったら白血球が増えるか?ばかり考えて、足を揉んだり、湯治に行こうかと考えてた。

 

そう、9ヶ月目から、ぐん!と体力が付いてきて、お昼寝しなくてもよくなった。白血球が3000に。ようやく基準値の最低ラインに到達した。

退院して1年経つと、体調も安定し、倒産した前の会社も新しい投資家の出資で復活。 

さらに4ヶ月経って、白血球が5000を超えた。完全復活だ!

 

病気が診断されたのが2年前。そして、退院して1年4か月経った今月、復活した会社に戻り、いつもの日々が始まった。

 

久しぶりに自分のブログを読み返してびっくりした。まるで他人の闘病記を読んでるみたいで心が痛かった。ってか、これ自分じゃん!

辛かった時の記憶って、なくなるみたい。生きてるだけで丸儲けなのだ。日々感謝。

 

 

原爆記念日と不思議な夢

昨日は、8月6日で原爆記念日でした。広島で生まれ育った私は、この日は必ず、夏休みの登校日で、町内の被爆したおじいさんおばあさんの話を体育館で聞いていました。。

今になってわかることですが、私が広島の小中学校で受けた平和学習では、日本、特に広島が受けた戦争の悲惨さだけではなく、いかに日本も他国に対して恐ろしい事をしてきたか、の両方を学ばせてもらいました。結論として、あの時の日本はおかしかった、二度とあのような日本に戻ってはいけない、という学習だったように思います。他の国はどうなのかな。戦争をした相手国を憎むような教育があるのかな。もちろん、戦争を知らない私達と、実際に家族が戦争で亡くなった人たちの感情は、全然違うと思います。

 

さて、

昨年の話になりますが、私が白血病になって、地固め療法の1回目の時、“父が主治医に書いた手紙” を、母が持って来ました。

その内容は、私が被爆三世に当たるので、白血病と何か関係があるかも知れない、というものでした。被爆二世と白血病のデータはとっているだろうけど、もし被爆三世と白血病の関係を研究している人がいたら、ここにも例があることを伝えて欲しいと。

私の祖母は、広島市内から電車で1時間ほど離れた街に住んでいましたが、長男(つまり私の叔父にあたる人)が市内の学校に通っており、73年前の昨日、被爆して亡くなりました。帰って来なかった息子を心配して、翌日、祖母は市内に出て探しましたが、息子はおらず、焼け野原の学校でお弁当箱だけが見つかったそうです。

長男が原爆で亡くなったこと、おばあちゃんが翌日、息子を探しに行って被爆したことは、家族・いとこ 全員知っていましたが、誰一人、その日の広島がどうだったかは、聞かなかったように思います。おばあちゃんの記憶をよみがえらせるのが怖かったんだと思います。

そんなおばあちゃんも、90歳近くまで生きました。私たちが小さい頃は、毎年、いとこ13人全員が祖母の家でお正月を迎えていたので、お年玉も大変だっただろうけど、楽しかったんじゃないかな、と思います。

祖母も長生きしたし、叔父叔母(被爆二世)やいとこ達も大きな病気もしていない(と思う)ので、父のいう、私が被爆三世であることと白血病は関係ないんじゃないかなぁ、と手紙を読んだ時は思いました。大きな病気になった時は、なんで私が!?と思うらしいのですが、不思議と私は全然思いませんでした。この病気の原因は不明とされてるし。そういう運命だったんだな、と冷静に(?)受け止めて、最初は「負けるもんか!」と前向きに治療を、途中から中だるみして、「そもそも抗がん剤治療5回も必要なん?」と思いつつ、8ヶ月間治療しました。

 

さて、本題は、昨日の夢のこと。

私やいとこ、いとこのお嫁さん達が産婦人科に全員集合して、一人ひとり、出産を始めるのです。〇〇ちゃんは、二人だわ~、〇〇ちゃんは、三人!赤ちゃんかっっわいい(*^o^*) 、なんてはしゃぐ私。生まれたかと思えば、すぐ大きくなっていきます。(そこは夢なんで…) 気がついたら、私だけ子供が生まれなくて(これ事実、私んとこだけ子ナシ)、急に悲しくなって、畳で寝ころんでた母に泣きつく!

という夢でした(T_T)

目が覚めると号泣。同じようなDNAを持っているの(ま、正確には違うんだけど)に、私の遺伝子だけ子ナシ白血病って!!!、おばあちゃんアメリカ人と結婚した私のこと怒ってるん!?

って、とっさに思いました。

ごめん、おばあちゃん。。。

 

しかししかし

私は両親から“もういいよ”と思うくらいの愛情と、目に見えないところで、二人のおばあちゃんの強固なプロテクトを背に生きていると真剣に思っています。それに、そんなわけがないのです。おばあちゃんから、アメリカを憎んでるなんて言葉聞いたこともないし。。。二人のおばあちゃんは、世界一優しくて穏やかな人たちでした。

 

白血病がわかる前の金曜日、すごく疲れてようやく帰宅する電車の中で、「ああ間に合った、良かった」と涙が止まらなかった事を思い出しました。人前で泣かないし、まして電車の中で涙が止まらないという経験なんて初めてで、帽子を深く被り、ハンカチを顔に当てて、声を出さないようにしても涙がずっと止まらないのです。で、心では、良かった間に合った、良かった間に合ったって思っている。そして、翌日じゃなく翌々日に目が半端なく腫れて、月曜日になっても腫れは引かず、これじゃ仕事に行けんばい、と皮膚科を受診したことで、白血病が見つかりました。

偶然だわ、って言ったらそれまでなのですが、私はおばあちゃんが「間に合った間に合った」と涙を流して、それで私が皮膚科に行って病気が見つかったと思っています。

 

んじゃ、あの夢はなんだったかな?

夫婦二人で、心に穴が空いたみたいな感情は子供を授からなかったからだよねって言ってた時期もありましたが、そんな想いも私の病気で吹っ飛んで、今は「あー生きてるだけで丸儲けだ、ビールが美味い!」と思うくらい現世を満喫しているのですが。

まあ、もともと変な夢をみるタチで、夢というものは変なものなのです。

 

退院して、もうすぐ1年が経ちます。一緒に仕事してきたみんなは、元気かなぁ。

私は、まだ家でのんびりしています。

 

 

2017年も終わり、ありがとう。皆さま良いお年を!

12月14日 血液検査
白血球WBC 2600/µL (前回 2500/µL)
赤血球RBC 397.0/万 (前回 400.0/万)
血小板PLT 11.9 /万 (前回 8.3 /万)

 

今日は大晦日。広島の実家で年越しです。12月の外来の血液検査で、白血球が少し増えて、ずっと減り続けてた血小板がいい具合に増えて、WT1(悪い細胞)も増えてなかったので、安心しました。超スローだけど回復している、そんな感じなのかな。体力も少しずつついてきた。

 

同室だった人が再発して、先週病院にお見舞いに行ってきた。病室に入る前にナースに彼女の具合を聞いたら、曇った顔で返事があった。私は、顔いっぱいにスマイル貼り付けて病室に入った。友達は、横になったままで、いっぱいしゃべってくれた。先日、一時退院した時は、ナスのボロネーゼを食べて、クリスマスはケーキを食べたとか、私の夢を見たとか(アメリカの農場にいたらしい)、3回目の抗がん剤は自分で決めたことだけどやるべきではなかったとか。喋りながら動かす手が震えてた。「やって良かったんだよ、これから白血球がちゃんとあがってくるから大丈夫だよ」って何回もいいきって帰った。
家に帰って何事もなかったように過ごしてたけど、晩ごはんを作っていたら泣けてきた。いくつか失くしたものがある、けど、それ以上にたくさんのものを得た1年だった。だから、来年はいい年になる。

たくさんの人に支えてもらった一年。ありがとう。皆さま良いお年を!